社長物語
社長物語

不動産王を目指した学生時代

大阪生まれ。電気工事会社のサラリーマンの父と、専業主婦の母、兄との4人家族。
幼稚園で愛媛に引っ越し、その後父は脱サラ。
のどかな田舎暮らし。築50年以上の古い平家の家に住み、ガラスが割れてもテープで補修するしかないような家庭だった。家の食事は畑で作り、母もパートで働き、私は鍵っ子の生活。

将来はお金持ちになりたいと思って、目指したのは、当時バブル時代の花形だった不動産業。大学進学して、不動産王になってやると必死だった。
とはいえ家にお金が無くて、地元の国立大学しかムリだと言われ、必死に勉強してなんとかギリギリで愛媛大学に合格。
落ちていたら工場で働く事になっていたため、合格した時は本当にホッとした。

大学に入って、アルバイトができるようになって、憧れの一人暮らし。お金を自由に使えるのが嬉しくて、たくさん稼いで、たくさん遊んだ。
就職先は不動産会社に入って、経験を積む事しか考えていなかった。
宅建を取得したものの、就職活動をする頃にはバブル崩壊で不動産業界は最悪の状況。
小さな頃から目指していた仕事が、就職を決める直前になって崩れたことは大きなショックだった。とはいえ、何もしないでフリーターではもったいない。
社会勉強目的で5年働いて転職するつもりで就職したのが、たまたま友達が面接を受けていた富士火災だった。

ある意味天職だった保険営業時代

そんな私が頑張った事は、保険の営業サポートではなくて本業の支援。
社会勉強をしたいと思っていた私にとって、担当者として様々な業種の会社と関われる保険会社は最高の環境だった。
そして保険の商品をいかに売るかよりも、お客様の本業の仕事そのものに興味を持った。
それは保険を売る事にそこまで興味を持っていなかったお客様の利害関係とも一致した。
お客様には仕事のことを教えてもらって、学び、本業の業績を上げるために走り回った。

車屋さんには車の販売の紹介をし、住宅会社には住宅の見込み客を紹介し、物販の会社にはその商品の拡販を手伝った。
地元ではない大阪で、知り合いはいなかったけれど、担当するお客様同士や、仕事上で知り合った人達を繋ぐ事で、みんなに喜んでもらう事ができた。

結果、お客様が私を応援してくれるようになり、保険の数字も増えていった。
そして営業社員2000人のトップ30名ほどに与えられる優秀営業担当者表彰を8年連続受賞。その成果が支社長に認められて、支社のテコ入れに抜擢され、大阪・奈良で3つの支社を経験させてもらう事ができた。

33歳、ゼロからの独立!

32歳、不景気のあおりで、50歳以上の早期退職者募集が始まった。
退職金の上乗せもあって、社内がバタバタし出した。優秀な人はドンドンと辞めていき、残っている人も転職活動をはじめ現場は混乱。合併問題で会社がどうなるかわからない状況で不安になった。

入社から10年経って、もうあまり会社に残って勉強する事もない。ある意味チャンスだと思った。そして「えいや!」と後先考える事なく思い切って退職届けを提出した。
すると、光栄な事に役員の方にまで引き止めていただけた。本社に呼んでもらって、「部長に昇格させて、部下と秘書をつけてやるから」とまで言っていただけた。まさかそこまで認めてもらえているとは思っていなかったので本当に嬉しかった。

しかし、逆に会社がそこまでの価値を感じてくれているという事実が、私は独立してもやっていけるという自信に繋がった。

33歳、独立。収入ゼロからのスタート。
保険のセールスには自信があったけれど、飛び込みで新規開拓できるほどの力はないと自分でもわかっていた。

ならばと、今まで関わった仕事を思い返してみて、選んだ仕事は自動車会社と保険代理店の兼業だった。ずっとやってきた損害保険代理店の事業は、契約に対しての割合で収入が増えていく制度のため、それだけで生活していく事はできなかった。

知り合いの、廃業で工場の撤去に困っていた自動車整備工場を、撤去費用分の500万円で買い取った。整備士を雇って、車検5万円、中古車販売10万円など単発の仕事で生活費を稼ぎながら、それに付随した自動車保険の提案で安定した収入を増やしていった。

もう前に進むしかなかった。朝から晩まで土日も休まず本当に必死に働いた。
そして1年経って、保険で合計3000万円の新規契約があったものの、決算はなんと300万円の赤字。「これでもか!」というくらい頑張っても、赤字で給与も取れない成果に愕然とした。

貯金の中から生活費を賄い、妻は生まれたばかりの次女のことで精一杯。このままではお金が尽きて路頭に迷うかもしれないと思った。でも、もう突き進むしかなかった。

34歳、もっと働く時間を増やすには、夜の時間を使うしかないと始めたのがBAR。
500万円かけて自動車工場内の一部を改装して店をつくり、自動車と保険の仕事が終わった後の7時から深夜2時まで営業した。
何を飲んでも500円。話をする事を目的としたBAR。
経営者やその社員さんと一度に5人くらいと2、3時間話ができたことで、自然な流れで自動車保険もドンドン売れた。お金をもらって、見込み客が獲得でき、紹介までもらえるようなお店。大盛況だった。

必死に頑張ったかいもあって2年目でなんとか黒字になった。しかし毎日、朝6時から深夜2時まで仕事。限界だった。
このままでは体がおかしくなってしまうと、BARをやめて、丼専門店に業態転換。毎日行列ができるような店だったけれど、社員の給与や家賃を入れて決算をまとめると、残った利益はたったの5000円しかなかった。

保険の方でなんとかお金がまわるようになった事もあって、飲食事業を撤退。
36歳、4年目にしてやっと自分の給与を普通に取れるようになった。
そして39歳、プロとしての提案の価値が伝わりやすいのは、個人よりも法人だと方針転換。法人向けの保険関連業務に力を入れるために、整備士だった社員に整備工場を譲渡した。

社長に喜んでいただける情報のアンテナショップを目指して!

色々な事業を自分でやって経験してきたからこそ、社長が困っている事、そして保険でできる事、できない事がよくわかった。
そして、ずっとお金持ちになりたいと思って頑張ってきたけれど、お金は誰かのために使うからこそ価値があるというのも身を持ってわかるようになった。

だからこそ、稼いだお金をさらにお客様に喜んでもらうための投資に回した。
もっと保険+αの提案にしっかり対応できるようにしたいと、41歳、コスト削減や財務強化などを行うコンサルティング専門会社株式会社ワールドを設立。
さらに、43歳、法人の様々な保険ニーズに対応できるよう、乗り合い代理店化するために、来店型ショップの立ち上げ。さらに、会社を大阪のビジネスの中心地、本町に移転。2000万かけて、法人の方が気軽に来店できるような店舗にした。

それからすぐ、会社の組織化を考え、私は完全に営業から退いた。
結構なお客様が離れていったけれど、それはそれで良かったと思っている。
法人のお客様を対応できるような社員を育てるために教育プログラムを作ったり、社長の気持ちがわかるようになるために、一緒にDVDを見て感想を共有するような勉強会を行ったり、その分、組織としてできる事は広がった。

目的はお客様に喜んでいただく事。保険は手段であって目的ではない。
保険以外の手段もあって、それも提案する中で、保険が必要であれば保険を提案すればいいという柔軟な考えでいる。

2013年、非営利の共済会を設立し、かゆいところに手が届くような保険を作った。
それが、一般社団法人自然エネルギー安心普及共済会。
お客様に投資・節税対策の一環で提案していた太陽光の賠償保険を業者向けに取り扱い、とても喜んでいただいている。

さらに、ガンの検査が手軽に簡単にできない事で、ステージⅢ・Ⅳでガン治療に苦しむ人をなんとかしたいと、飲み薬と検尿でガンの早期発見をサポートする「がん予防メディカルクラブ」の紹介を推進。

また、海外金融サービスなど、保険以外でお客様を守る方法についても積極的に紹介している。やっている事は、お客様のお役に立てる場所を増やしていく活動。
他社ではやっているいいものは紹介するし、できないものは作る。ただそれだけ。

借金をして、投資をして、やっている事はドンドン増え、一風変わった会社になってきたと思う。それでも感じているのは、保険という商品の限界。
保険だけではできない事がたくさんある。情報のアンテナショップとして、知ればお得な情報をもっと伝えてあげたい。

目的は売ることではないので、それで損をする事になっても仕方がないと思ってやってきたけれど、今のところ、色々あったけれど、なんとかうまく成り立っている。
お客様を笑顔にさせる事で、利益は後から付いてくる。

世の中にはもっと面白い情報がたくさんある。
人脈を広げ、もっと新しい事を伝え、もっと喜んでもらえる会社にしていきたい。